コンプリート・シャーロック・ホームズ
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唇のねじれた男

故イライアス・ホイットニー神学博士はセント・ジョージ神学校校長だったが、その弟アイザ・ホイットニーが重症のアヘン中毒者になっていた。この悪癖は、大学にいた頃に馬鹿な気まぐれを起こして以来、徐々に深みにはまっていったのだと聞いている。彼はド・クインシー*の夢や高揚感の描写を読んで、同じ体験をしてみたいと思い、タバコにアヘンチンキをたっぷり染み込ませて吸ってみた。やがて彼もまた、大勢の中毒者と同じように、アヘンに手を染めるのはたやすいが、足を洗うのは難しいことに気づいた。以後ずっとアヘンのとりことなり、友人や親族から嫌悪と同情の入り混じった目で見られることになった。今、私が診察している彼の姿は、死人のような土気色の顔、垂れ下がった瞼、針の先のように窄まった瞳孔、椅子の中で縮かんだ身体、 ―― かつては高貴だった男の抜け殻である。

1889年1月のある夜のことだった。人が思わずあくびをし、時計に目をやるような時刻になって、玄関ベルが鳴った。私は椅子で身を起こし、妻は針仕事を膝の上に置き、少しがっかりした表情を見せた。

「患者よ!」妻は言った。「きっと往診だわ」

私はうめいた。昼間くたくたになって、やっと帰ったばかりだったからだ。

ドアが開く音がして、焦った口調の話し声が聞こえ、続いてリノリウムの廊下を小走りにやって来る足音がした。部屋の扉がバンと開くと、暗い服に身を包み、黒いベールをかけた女性が入ってきた。

「こんな遅くにお邪魔してすみません」こう言いかけたが、突然自制心を失って妻に走り寄り、首に手を回すと肩の上ですすり泣いた。「私、本当に困っているの!」彼女は大声で言った。「お願いだから助けて」

「まあ」妻はベールをめくりながら言った。「ケイト・ホイットニーじゃないの。びっくりしたわケイト、入って来た時は誰かと思ったわ」

「どうしていいか分からなくて、だから真っ直ぐにあなたのところに来たの」鳥が灯台に向かうように、悲嘆に暮れた人間が妻の元に来るのはいつものことだった。

「来てくれて嬉しいわ。さあ、ワインの水割りを少し飲んで、ここに座ってくつろいでから、私達にすべて話して下さい。それともジェームズには寝室に外して貰いましょうか?」

「いえ!私はご主人のお知恵とお力もお借りしたいのです。アイザのことなんです。二日も家に帰ってきていません。夫に何かあったのかと本当に心配で心配で!」

ケイトが私たちに夫の問題を話すのは、初めてではなかった。私には医者として、妻には旧い友人と学校の仲間として、彼女はこれまでも相談を持ちかけていた。私たちは思いつく限りの言葉でなだめ、安心させた。ケイトは夫がどこにいるかを知っているのだろうか?私たちなら、夫を彼女の元に送り届けることが可能だと言うのだろうか?

どうやら、それは可能なようだった。ケイトは、最近夫は発作が起きるとシティの東外れにあるアヘン窟に行くという、確実な情報を持っていた。これまでは、彼の乱行は一日止まりで、夜になると痙攣を起こしボロボロになって、家に帰ってきていた。しかし、今回の呪縛は48時間にも及び、彼はまだアヘン窟で横になっている。多分寝台の上の屑人間に交ざって、有害な煙を吸い込んでいるか、アヘンの効き目が覚めるまで横になっているのだろう。夫がいるのは、アッパー・スワンダム・レイン「ゴールド・バー」だと、彼女は確信を持っていた。しかし彼女に何が出来るだろう。若く気の弱い女性がそんな場所に入り込んで、周りにいるごろつきから夫を救い出すことが出来るだろうか。

もちろん、方法はただ一つしかない。ケイトがそこに行くのを放ってはおけない。しかしよく考えてみれば、彼女が行く必要があるのか?私はアイザ・ホイットニーの主治医であり、これまで彼に生活指導をしてきた人間だ。一人で行った方が、仕事がはかどりそうだ。そこで私は、もし本当に彼がその場所にいれば、二時間以内に辻馬車で家につれて帰ると固く約束し、10分後には、肘掛け椅子と居心地の良い居間を後にして、二人乗り馬車で東に向かって急いでいた。奇妙な任務だとは思ったが、それがどれほど奇妙かは、その時は知る由もなかった。

しかし、目的の場所は意外に簡単に見つかった。アッパー・スワンダム・レインは高い波止場の後ろに隠れて、河の北側にロンドン橋の東側まで連なった汚い裏通りだ。安物の既製服店とジン酒場*の間に急な階段があり、反対側は洞窟の入り口のような真っ黒い隙間へと続いている。私は辻馬車を待たせておいて、一人でそこに出向き、問題のアヘン窟を見つけた。アヘンに酔った男たちに絶え間なく踏まれて真中の部分がくぼんだ階段を下り、ドアの上できらめいているオイルランプの光で、掛け金を見つけ中に入った。天井が低く細長い部屋にアヘンの濃い褐色の煙がただよい、段々になった木の寝台は移民船の水夫部屋のようだった。

薄暗がり越しに、寝転んだ人間をぼんやりと見分けることができた。想像もできないような奇妙な姿勢で、背中を丸め、膝を曲げ、頭を後ろに反らせ、顎を上に向け、あちこちに、新しくやってきた人間を見つめる暗くどんよりした目があった。黒い影の中で、金属製パイプの受け皿に置かれたアヘンの塊が燃えたりくすぶったりするのにつれて、かすかな赤い光の輪がチラチラとまたたいていた。大部分の人間は静かに横たわっていた。しかし中にはブツブツと自分につぶやいている者もいた。別の人間は、奇妙な低い単調な声で話し合っていた。その会話は突然激しい口調になったかと思うと、また突然ぴたりとやんだ。お互いに自分の考えをつぶやき、相手の言葉にはほとんど関心を払っていなかった。一番奥には、炭を燃やしている小さな火鉢があり、その側にある3本足の木の椅子に背の高い痩せた老人が座って、両拳の上に顎を乗せ、膝の上に肘を置いて炎を見つめていた。

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私が入ると、顔色の悪いマレー人の店員が慌ててパイプと麻薬を持ってやってきて、空いた寝台に誘った。

「ありがとう。ちょっと寄っただけだ」私は言った。「私の友人がここにいるはずだが。アイザ・ホイットニーさんだ、私は彼と話がしたい」

右手の方で人の動く気配がして、叫び声が上がった。暗がり越しに覗き込むと、青白くやせ衰えてぼさばさの髪のホイットニーがこちらをじっと見ていた。