コンプリート・シャーロック・ホームズ
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もし、ついさっき目撃した惨劇で気が滅入っていなければ、タイムの香りが漂う丘陵地帯を越えて歩くのはきっと楽しかっただろう。フルワースの村は、入り江をぐるっと取り囲む半円形の盆地の中にあった。昔ながらの村落の向こうの高台に、何軒か近代的な建造物が建てられていた。スタックファーストが案内したのはその中の一つだった。

「あれが、ザ・ヘイブンです。ベラミーの人はそう呼んでいます。角に塔が立っている、スレート屋根の家です。無一文から出発した男にとっては悪くないが・・・、なんと、あれを見てください!」

ザ・ヘイブンの庭の門が開き、そこに男が姿を現した。背の高い、痩せこけた、しまりのない体は見間違えようがなかった。それは数学講師のマードックだった。次の瞬間、我々は道の上で彼と対面した。

「やあ」スタックファーストが言った。マードックは、奇妙な黒い目でちらりとこちらを見て、うなずいた。そして通り過ぎようとしたが、スタックファーストは彼を制止した。

「あそこで何をしていたんだ?」彼は尋ねた。

マードックの顔は怒りに真っ赤になった。「私はあなたの部下で、あなたの家の住人でしたね。すみませんね。個人的な行動をあなたに説明する義務があったのに、すっかり忘れていました」

スタックファーストは、これまで何度も我慢を重ねてきて、忍耐力の限界に達していた。そうでなければおそらくこらえただろうが、この時、彼は完全に自制心を失った。

「こういう状況で、その言い方は無礼千万だ、マードック君」

「あなたの質問も多分、似たり寄ったりでしょうがね」

「これまで何度も、君の反抗的な態度を見過ごしてきた。だが、それももうこれまでだ。出来る限り早く、新しい職場を見つける準備をしてもらえるとありがたい」

「そうするつもりでしたよ。私は今日ただ一人の友人を失った。もう、ザ・ゲイブルズに残る理由はない」

彼はつかつかと去っていった。その間スタックハーストは、怒りの形相で、彼を見送っていた。「信じられないほど我慢ならぬ男だ、違いますか?」彼は叫んだ。

私には、イアン・マードックが犯行現場から逃走する口実として、最初のチャンスをものにしたという印象が強く残った。心の中でぼんやりとした疑念が、徐々に輪郭を形成し始めていた。もしかするとベラミー宅を訪問すれば、この件に関してさらに手がかりが得られるかもしれない。スタックハーストが落ち着きを取り戻したので、我々は家に向かった。

ベラミー氏は燃えるように赤い頬髯をはやした中年の男性だった。彼は怒り心頭に見えた。そしてたちまち、その髪のように顔を真っ赤にした。

「いや、皆まで聞く気はない。この息子も」彼は、応接室の片隅にいる重厚でむっつり顔の、頑強そうな青年を示しながら言った。「私と全く同じ意見だ。マクファーソンがモードに言い寄ったのは侮辱だ。そうだ。『結婚』などという言葉を一言も口に出さないのに、やれ手紙だ逢引きだ、それ以上に私も息子も納得できんことばかり色々しおった。娘には母親がおらん。だから私と息子だけが保護者だ。私たちは決めておるのだ・・・」

しかし、話題の女性が現れたので、彼は最後まで話せなかった。彼女がどんな場に出ても光彩を放つ女性だということに疑問がある者はいないだろう。こんな親と、こんな環境から、このようにたぐい稀な花が生まれるなどと誰が想像しえただろう?私の頭脳は常に精神を支配しているので、女性に惹かれる事などまずない。しかし彼女は、丘陵地帯全てのしっとりとした瑞々しさと、優美な肌の色合いを持っており、端正で完璧な顔をじっと見ていると、恋の矢に射抜かれることなく彼女とすれ違うことが出来る青年はいないだろうと思わずにはいられなかった。口論の最中に扉を押し開いたのは、このような女性だった。彼女は、目を見開き興奮した様子で、ハロルド・スタックハーストの前にやってきた。

「フィッツロイが亡くなったことはもう聞きました」彼女は言った。「躊躇なさらず、詳細を話してください」

「君のところにいる男がその知らせを持ってきたのだ」父親が説明した。

「俺の妹がその事件に巻き込まれる筋合いはねえ」息子が脅すように言った。

妹は振り返って兄に鋭く激しい視線を投げかけた。「これは私の問題よ、ウィリアム。いいから私の思うようにさせて。明らかにこれは殺人です。もし犯人を見つけるのに役立てるなら、それが亡くなった彼に対して私ができるせめてもの事です」

彼女は落ち着き、集中してスタックハーストの短い説明に耳を傾けた。それは私に彼女が非常な美しさと同時に強い性格を持っていることを示した。モード・ベラミーは完璧な驚くべき女性としてずっと私の記憶に残るだろう。彼女は私のことをすでに見知っていたようだ。最後に彼女が私の方を向き直ったからだ。

「犯人たちに当然の報いを受けさせてください、ホームズさん。彼らがどんな人間でも、私はあなたに協力を惜しみません」私には、彼女が話している時、挑戦的に父と兄をちらりと見たように思えた。

「ありがとうございます」私は言った。「私はこういう場合には女性の直感を尊重します。あなたは『彼ら』とおっしゃいましたね。複数の人間が関わっているとお考えですか?」

「私はマクファーソンさんを良く知っています。勇敢で強い男性です。犯人が誰だったにせよ、一人だけではあんなひどい暴行を加えることはできません」

「ちょっと、内密にお話できませんか?」

「おい、モード、この事件に関わりあうな」彼女の父は腹立たしげに怒鳴った。

彼女は困ったように私を見た。「どうしましょうか?」

「間もなくこの事実はみんなの知るところになるでしょう。だから、ここでそれを話し合っても何も問題はありません」私は言った。「私はプライバシーを優先しようと思ったのですが、あなたの父親がそれを許さない以上、話に加えるしかないですね」私は亡くなったマクファーソンさんのポケットから見つかった手紙について話をした。「この手紙は間違いなく検死裁判に提出されます。これに関して何かお話できることがあればお伺いたいのですが?」

「秘密にする理由はありません」彼女は答えた。「私たちは結婚の約束をしていました。それを秘密にしていた理由はただひとつ、フィッツロイの伯父さんのせいです。非常な高齢でそう先が長くないようなのですが、もし意思に反した結婚をすれば、フィッツロイに遺産相続をさせない可能性がありました。理由はそれだけです」

「何でそれを言わなかったんだ」ベラミー氏が怒鳴った。

「お父さんが応援してくれそうなら、打ち明けたでしょう」

「娘が身分違いの男と交際するのは反対だ」

「彼に対してそんな偏見を持っているから、話せなかったのよ。その約束についてですが」彼女は服を手探りし、しわくちゃになった手紙を差し出した。「それはこの手紙の返事です」

愛する人へ
火曜日の日没直後に浜辺のいつもの場所で。僕が外出できるのはこのときだけだ。
F.M.

「火曜日というのは今日のことです。私は今夜彼と会うつもりでした」

私は手紙を裏返した。「郵便で来たのではありませんね。どのようにしてこれを受け取ったのですか?」

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「その質問にはちょっと答えられません。あなたが捜査中の事件とは本当に何の関係もありません。ですが、事件に関係している事なら何でもまったく包み隠さずお答えします」

彼女はその約束どおりに話をした。しかし、捜査に役立つ情報は何もなかった。彼女は婚約者に知らない敵がいたと考える理由はないと言った。しかし彼女は自分に何人か熱心な求婚者がいたことを認めた。

「イアン・マードックさんもその中の一人かどうか、お伺いしてよろしいでしょうか?」

彼女は顔を赤くして困っていたようだった。

「一度、そのように考えた時がありました。しかしフィッツロイと私の関係を知った時、彼は完全に変わりました」

私には、あの奇妙な男を取り巻く影が、くっきりと浮かび上がるようにに思えた。彼の経歴は洗わねばならない。彼の部屋は非公式に捜索しなければならない。スタックハーストは喜んで協力してくれるだろう。彼の心でも疑念が膨らんでいるからだ。もつれた糸かせの一本の端を見つけたという手ごたえを感じて、私たちはザ・ヘイブンを後にした。