コンプリート・シャーロック・ホームズ
ホーム長編緋色の研究四つの署名バスカヴィル家の犬恐怖の谷短編シャーロック・ホームズの冒険シャーロック・ホームズの回想シャーロック・ホームズの帰還最後の挨拶 シャーロック・ホームズの事件簿

「これ以上話す前に言っておかなければならないことが一つあります。私達が結婚した時、妻は自分の財産を私に渡しました。私はこれには反対でした。もし仕事が上手く行かなくなったら、面倒なことになりかねないと思ったからです。しかし妻の願いで、そのようにしました。ところが、約六週間前、妻は私のところに来ました」

「『ジャック』妻は言いました。『私がお金を預けた時、もし必要なことがあれば声をかけてくれと言ったわよね』」

「『確かに』私は言いました。『あれはみんな君のものだ』」

「『じゃあ』妻は言いました。『百ポンドいただけるかしら』」

「私はちょっと驚きました。私は妻が欲しがっていたのはちょっとした新しい服か何かだと想像していたからです」

「『いったい何に使うんだ?』私は尋ねました」

「『ああ』妻はふざけた調子で言いました。『あなたは私の銀行員になるだけだって言ったわ。銀行員は質問しないものよ、そうでしょ』」

「『もし本気でそう言うなら、もちろんそのお金を渡すよ』私は言いました」

「『ええそう、本気よ』」

「『何に使うのか私に言わないつもりなのか?』」

「『多分、いつかね、でも今は駄目、ジャック』」

「私は妻の言うとおりにしなければなりませんでした。しかしこんな事は初めてでした。これまで私達は何の隠し事もしませんでした。私は妻に小切手を渡し、この件についてはそれ以上考えませんでした。これは後に起きることとは関係無いかもしれませんが、しかしここで触れておくべきだと思ったのです」

「さて、つい先ほど申し上げたように、私達の家の近くに小さな家が建っていました。家の間は野原になっています。しかしそこに行くには、広い道に沿って行き、その先で細い道へ曲がって行かなければなりません。その家のすぐ後ろはスコットランド樅の感じのいい小さな木立になっています。木立にはいつでも癒される感じがあるので、私はそこをぶらつくのが大好きでした。その小さな家はこの八ヶ月、残念なことにずっと空家でした。可愛らしい二階建ての家で、古めかしい玄関にはスイカズラのつるがまとわりついていました。私は何度となく立ち止まり、どんなに素敵な田舎家になるだろうかと考えました」

「この前の月曜の夕方、私はその道をぶらぶらしていました。その時、私は空の荷馬車が小道を上がってくるのに出会いました。そしてカーペットや他の品物の山が玄関脇の芝生の上に並べられているのを見ました。その小さな家に遂に借り手がついたことは明らかでした。私はそこを通り過ぎると、急ぐ必要もないので立ち止まりました。私は我が家のこんなに近くに越してきたのはどんな感じの人だろうかと思いながら、家のあちこちを見回しました。私が眺めていると突然、二階の窓に私をじっと見ている顔があることに気付きました」

「ホームズさん、その顔の何がどうというのはよく分からないのですが、それを見ると背筋がぞっとするような感じがありました。私はちょっと離れていたので、顔立ちを見分ける事はできませんでした。しかし、何か不自然で非人間的なものがあるという印象を受けました。ですからすぐに前に歩を進めて、私を眺めていた人物をもっと近くで見ようとしました。しかしその瞬間、突然顔が消えました。あまりにも突然だったので、部屋の闇の中に引っ張られたように見えました。私は立ったまま、五分ほどこの出来事について考え、自分が受けた印象を分析しようとしました。その顔は男か女かも分かりませんでした。距離が遠すぎて、そこまでは分かりませんでした。しかし一番印象深かったのは顔色でした。それは白墨のように白く、何かこわばって堅い感じがあり、ぞっとするほど不自然でした。私は非常に不安になったので、この家の新しい住人をもう少し見てみようと決心しました。私は家に近付いてドアをノックしました。すぐに背の高い、痩せて厳しい邪険な表情をした女性がドアを開けました」

illustration

「『何かご用ですか?』彼女は北部なまりの口調で尋ねました」

「『私はそこの住人です』私は自宅の方をちょっと見ながら言いました。『ちょうど引っ越してきたばかりのようですので、何かお役に立てることがあるかもしれないと思いまして・・・・』」

「『ああ、何か用ができたら頼みますよ』彼女はそう言うと、私の目の前で扉を閉めました。無作法な断り方に腹を立てて、私は背を向けて家に歩いて帰りました。一晩中、私は別の事を考えようとしたのですが、どうしても、窓の幻影と無礼な女が頭から離れませんでした。私は妻がとても神経質で過敏なため、不気味な顔の事は何も言わないでおこうと決めていました。それに、自分の味わった不愉快な印象を妻にも受けさせたいとは思いませんでした。しかし眠りにつく前に、あの家に人が住むようになったと、私は話しました。妻はこれには何も答えませんでした」