コンプリート・シャーロック・ホームズ
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訪問者がよたよた歩いて部屋から出て行くや否や、…メリロー夫人の歩の進め方を他の動詞では表現できないが…シャーロックホームズは激しい勢いで部屋の隅にある備忘録の山に突進した。数分間、ずっとページをめくる音が聞こえていた。その後、満足げなうなり声を上げて彼は探していたものを見つけた。非常に興奮していたので彼は起き上がらず、床の上に奇妙な仏像のように座っていた。足を交差させ、あたり一面に大きな本をちらかし、その内の一冊を膝の上で広げた。

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「この事件はあの頃気になっていたんだ、ワトソン。この欄外の書き込みでそれが分かる。この事件はまったく目星がつかなかったことは認める。それでも僕は検視官が間違っていることを確信していた。アバス・パーバの惨劇について覚えているか?」

「全く覚えていない、ホームズ」

「君はこの頃僕と一緒だったのだがね。しかし間違いなく僕の印象は非常に表面的だった。何も頼りにするものがなかったし、どの関係者も僕に依頼してこなかった。もしかして、君もこの新聞を読んでみたいか?」

「要点をかいつまんで話してもらえないかな?」

「それはお安い御用だ。僕が話していると多分君も思い出すだろう。ロンダーは、もちろん、有名な人物だ。彼は当時、最も偉大なショーマンのウムウェルとサンガーのライバルだった。しかし、彼が酒に手を出したという証言があり、彼も彼のショーも、あの大きな惨劇が起きた頃には下り坂にさしかかっていた。この恐ろしい出来事が起きた時、幌馬車はその夜アバス・パーバで一夜を過ごしていた。そこはバークシャーの小さな村だ。彼らは陸路を移動して、ウィンブルドンに行く途中だった。彼らは単に宿泊しただけで催し物はしていなかった。その村は非常に小さいので、開催料は払えなかったのだ」

「彼らは見世物用に非常に立派な北アフリカのライオンを飼っていた。サハラ・キングという名前だ。ロンダーと彼の妻が一緒に檻の中に入るのが、定番の出し物だった。ほら、ここに興行写真がある。これで君もロンダーが巨大なブタのような人間で、彼の妻が非常に美しい女性だと分かるだろう。検死陪審の証言によると、ライオンの気が立っていたた兆候があったらしい。しかし、ご多分にもれず、慣れ親しんでいると侮りが生まれるもので、この事に全く注意が払われなかった」

「ロンダーと彼の妻にとって夜、ライオンに餌を与えるのは普通のことだった。一人で行くときも、一緒に行くときもあった。しかし他の誰にも餌を与える事は許さなかった。彼らは餌を運んでいる限りライオンは彼らを保護者とみなし、決して危害を加えないだろうと信じていたからだ。七年前のこの事件があった夜、彼らは二人で餌を与えに行った。そして非常に恐ろしい事件がその後に起こった。その事件の詳細は全くあやふやなものだ」

「深夜近くに動物の咆哮と女性の叫び声で一行全員が起こされたようだ。あちこちのテントにいた馬丁や使用人がランタンを手に駆け出してきた。その光に恐ろしい光景が照らし出された。ロンダーは後頭部を叩き潰され、頭部に深い爪あとを残して、開いた檻から約10ヤード離れたところに倒れていた。檻の扉の近くに、ロンダー夫人が仰向けに倒れていて、ライオンがしゃがみこんで彼女の上でうなり声を上げていた。ライオンは彼女の顔を引き裂き、とても命が助かるとは思えないような傷を与えていた。怪力男レオナルドを先頭に、ピエロのグリッグズなど、サーカスの男達数人が、棒を使ってライオンを追い払った。これでライオンは檻の中に飛び込み、すぐに鍵がかけられた。どうして鍵が開いたかは謎だった。この二人は檻の中に入るつもりだったが、扉の鍵が開けられた時、ライオンが飛び出して彼らを襲ったと推定された。証言の中にこれ以上興味を引く点はなかったが、苦痛で錯乱状態になった女性は、夫婦が住んでいた幌馬車に運び込まれた時『臆病者!臆病者!』と叫び続けていたらしい。彼女は六ヶ月経過するまで証言はできなかった。しかし検視陪審は予定期日どおりに開かれ、偶発事故による死という当たり前の評決を下した」

「それ以外にどんな判決がありうるんだ?」私は言った。

「そう言うのもまあ当然だ。それでも、バークシャー警察のエドモンズには気にかかる点がひとつふたつあった。切れる奴だ!彼は後にアラハバードに転勤となった。僕がこの事件に関わるようになったのは、彼がやってきてパイプをちょっと吹かしながらその話をしたからだ」

「痩せた金髪の男か?」

「その通り。いずれ、君は彼のことを知ることになるだろうと確信している」。

「しかし彼は何が気になったんだ?」

「そうだな、彼も僕も気になったんだ。それはこの事件を再構築するのがとんでもなく困難だということだ。ライオンの視点からこの事件を見てみろ。彼は自由になる。何をするだろう?彼は前に六歩跳ねて、ロンダーのところに来る。ロンダーは逃げようと振り返る ―― 爪痕は後頭部にあった ―― しかしライオンは彼を殴り倒す。その後、そのまま跳ねて逃げるかわりに、彼は女性のところに戻る。彼女は檻のそばにいた。そして彼は彼女を殴り顔をかじる。それからさらに、彼女のあの叫びは夫が何らかの方法で彼女の役に立たなかった事を暗示しているように思える。この哀れな男にどうやって彼女を助ける事ができたと言うんだ?僕の言う困難さが見えてきたかな?」

「確かに」

「それから別の問題もある。この事件を考え直していて思い出した。ライオンがうなり声を上げて女性が叫んだちょうどその時、一人の男が恐怖にわめき始めたという複数の証言がある」

「言うまでもなくその男はロンダーだろう」

「いや、もし頭蓋骨が打ち砕かれていれば、それからまた声をあげるとはとても思えないだろう。女性の悲鳴に混じって男の悲鳴があったという話をした証人が少なくとも二人いる」

「きっと、その時までには団員全部が叫び声をあげていたと思うな。他の点については、だいたい答えが出せると思う」

「喜んでそれを検討させてもらおうか」

「ライオンが逃げた時、この二人は檻から10ヤード離れたところで一緒にいた。男は振り返って打ちのめされた。女性は檻に入って扉を閉めようと思いついた。逃れる場所はそこしかなかった。彼女はそこに向かった。そして彼女がちょうどそこまで来た時、ライオンが後ろから跳びかかり彼女を打ち倒した。彼女は夫が振り返ってライオンの怒りをあおった事に腹を立てた。もし二人で対決していれば屈服させる事ができたかもしれない。こうして彼女の叫びは『臆病者!』となる」

「見事だ、ワトソン!君のダイアモンドには一箇所傷がある」

「その傷とはなんだ、ホームズ?」

「もし彼らが二人とも檻から10ヤード離れていれば、なぜライオンが逃げられたんだ?」

「彼らには敵がいて、そいつが放したということはありえるかな?」

「それに、なぜライオンは彼らをひどく攻撃しなければいけなかったのか?ずっと檻の中で彼らと一緒にふざけたり芸をする習慣だったのに」

「もしかすると同じ敵が何か怒らせるようなことをしていたのかもしれない」

ホームズは考え深げな様子でしばらくの間黙っていた。

「まあ、ワトソン、君の説に有利な点を言っておこう。ロンダーは敵の多い男だった。エドマンズは僕に、ロンダーが酒に酔った時は、大柄で威張り散らすので大変だったと言った。彼は近くに来た者は誰でも罵ったり殴ったりした。さっきここに来た女性は、下宿人が怪物と叫ぶと言っていたが、僕の予想では、夜になると死んだ男の記憶が蘇えるからだ。しかし事実関係を全部つかむまで、憶測しても虚しいな。サイドボードにウズラの冷製があるよ、ワトソン。そしてモントラシェ・ワインが一瓶だ。気持ちを切り替えて出かけるために、活力を回復しておこう」