コンプリート・シャーロック・ホームズ
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モースタン嬢は暗い色のマントを着込み、感情が表にでやすい顔は、落ち着いた表情だったが血の気は引いていた。もちろん女性である以上、今まさに出発しようとする不思議な旅に何の不安も感じていなかったはずはない。しかし彼女は完璧なまでに自分を抑制し、シャーロックホームズの追加質問にてきぱきと答えていた。

「ショルト少佐は父の特別な友人でした」彼女は言った。「父の手紙には少佐の話がよく出てきました。少佐と父はアンダマン諸島の兵の指揮をしており、二人は非常にいい同僚でした。ところで、奇妙な紙が父の机から見つかりました。誰も意味が分かりませんでした。私は、まったく重要だとは思いませんでしたが、ホームズさんがご覧になりたいと思うかもしれないと考えて持ってきました。これです」

ホームズはその紙を丁寧に広げ、膝の上で延ばした。その後、二重レンズを使って、非常に体系的に隅から隅まで調べた。

「これはインドの現地工場で作られた紙だな」彼は言った。「かなり長い間、板にピンで止められていた。ここに描かれている図は大きな建物の一部を描いた平面図のようだ。数え切れないほどのホール、廊下、通路がある。この場所に赤いインクで小さな十字が描かれている。その上に 『左から3.37』、これはかすれた鉛筆で書いてある。左の角には、四つの十字が一列に並び、それぞれの横棒が触れているような奇妙な記号がある。これが書かれた横に、荒っぽくがさつな字で、『四つの署名、ジョナサン・スモール、マホメット・シング、アブドゥーラ・カーン、ドスト・アクバル』率直に言って、これが今回の事件にどう関係しているか分かりません。しかしそれでもこれは明らかに重要な文書です。両面とも同じように綺麗だから、手帳か何かに丁寧に挟んであったはずです」

「手帳の間から見つかりました」

「それでは、慎重に保管しておいてください、モースタンさん。後で、役に立つことになるかもしれません。この事件は僕が最初に想像したよりも、もっと深くもっと複雑かもしれないという気がしてきた。考え直す必要があるな」

彼は馬車の席にもたれた。そして、引き寄せられた眉とうつろな目で、彼が一心に考え込んでいるのが分かった。モースタン嬢と私はこの遠出について、そしてこれがどんな結果になりうるかについて、小声で話し合った。しかしホームズは馬車が停まるまで、近寄りがたい沈黙を保っていた。

この時は九月の夕方で、まだ七時前だった。しかし、うっとおしい日で、小雨を伴った濃い霧が巨大都市を覆っていた。茶色の雲が土色の通りにわびしく垂れ込めていた。ストランド街を通る時、街灯はにじんだ光のぼんやりとした染みにしか見えなかった。それはぬかるんだ歩道の上にかすかな丸い輝きを落としていた。黄色い光の輝きがショーウィンドーからこぼれて、霧っぽい空気の中、薄暗く揺らめく輝きを、混雑した往来越しに投げかけていた。この細い光の帯を急ぎ足で横切って果てしなく続く顔、・・・・悲しい、喜んだ、疲れた、陽気な顔。私には、それが不気味で、幽霊のように見えた。全ての人類と同じように、彼らは闇から光にさっと現われ、同じようにもう一度闇の中に戻る。私は周りの印象に影響を受けやすい性質ではない。しかし、このどんよりした重苦しい夜に加え、解決を依頼された奇妙な事件のおかげで、私は神経質で憂鬱になっていた。モースタン嬢の様子から、彼女も同じ気分に陥っている事が分かった。一人ホームズだけは、どんなわずかな影響も受けていなかった。彼は手帳を膝の上に置き、時々自分の携帯用ランタンの光で数字やメモを書きとめた。

ライシーアム劇場の横の入り口はすでに人で溢れていた。正面では、ハンサム型馬車や四輪馬車がガタガタと音を立ててひっきりなしに到着していた。中から、ドレスシャツを着た男やショールを巻いてダイアをつけた女性が出てきた。待ち合わせ場所の三番目の柱に馬車が着くや否や、御者の服に身を包んだ、色黒で背の低いきびきびした態度の男が声を掛けてきた。

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「あなた方はモースタンさんのご一行ですか?」彼は尋ねた。

「私がモースタンです。そしてこの二人の紳士は私の友人です」彼女は言った。

彼は突き刺すような視線で、驚くほど疑わしそうに我々を見た。

「失礼ですが、お嬢さん」彼はかなりしつこい態度で言った。「こちらのお連れさんが、どちらも警官ではないと、約束していただかねばなりません」

「約束します」彼女は答えた。

彼は鋭く笛を吹いた。その合図で浮浪児が四輪馬車を持ってきて扉を開けた。彼は、我々が馬車の中に座ろうとしている間に御者台に上がった。御者が馬に鞭をくれた時、我々はまだほとんど腰を降ろしていなかった。そして馬車は恐ろしい勢いで霧っぽい通りの中へと出発した。