コンプリート・シャーロック・ホームズ
ホーム長編緋色の研究四つの署名バスカヴィル家の犬恐怖の谷短編シャーロック・ホームズの冒険シャーロック・ホームズの回想シャーロック・ホームズの帰還最後の挨拶 シャーロック・ホームズの事件簿

「もし依頼を引き受けるとなれば、どんな細かい点でも知っておく必要があります」彼は言った。「ゆっくり思い出してください。一番些細な点が一番大事かもしれません。あなたのお話では、その男は十日前に来て二週間分の食事付下宿料を前払いしたということですね?」

「彼はこちらの条件を尋ねました。私は一週間に50シリングだと言いました。最上階に狭いですが居間や寝室など、必要なものをすべてを備えた場所があります」

「それで?」

「彼は言いました。『もしこちらの条件を飲んでくれるなら一週間に5ポンド出す』私は裕福ではありません。夫の稼ぎもあまりありません。だからそのお金は私にとって本当にありがたいものでした。彼は10ポンド紙幣を取り出し、その場で手渡しました。『もし私の条件を守ってもらえれば、今後ずっと二週間ごとに同じだけ払う』彼は言いました。『もし守れなければ、話はこれで終わりだ』」

「その条件とは何ですか?」

「玄関の鍵を渡すことでした。下宿人にはよく鍵を渡していますから、これは問題ありませんでした。もうひとつの条件は、完全に彼を一人にしておくこと、そしてどんな理由があっても決して部屋に入らないことでした」

「別に不思議な条件ではないようですが?」

「理屈ではそうです。しかしこれはまったく理屈ではないんです。部屋に閉じこもって十日間もたちます。その間ウォーレンさんも私も女中も、お互いに一度も顔を合わせていません。せかせかした足音が行ったり来たり、行ったり来たりするのが聞こえるだけです。夜も、朝も、昼もなんですよ。最初の夜を除いて一度も家から出たことがありません」

「ほお、最初の夜に外出したんですね?」

「ええ、そして非常に夜遅く戻ってきました、 ―― 家の者がみんなベッドに入った後です。彼は部屋を確保した後、私に帰りが遅くなると言って、扉に閂をしないように頼みました。十二時過ぎに階段を上がる音が聞こえました」

「でも、食事はどうするんですか?」

「奇妙な指示を出しました。ベルを鳴らすと食事をドアの外の椅子の上に置くんです。その後、食べ終わったら、またベルを鳴らします。そうしたら置いたのと同じ椅子から食器を下げます。もしほかに何か欲しいものがあれば、紙に活字体で書いて置いてあります」

「活字体で?」

「そうです、鉛筆で書いた活字体です。単語だけです。それ以外は何も書いてありません。これはあなたにお見せしようと持ってきたものです、 ―― 石鹸です。それからこれは別のもの、 ―― マッチです。これは最初の朝に置いてあったものです、 ―― デイリー・ガゼットです。私はその新聞を毎朝、朝食と一緒に置いています」

illustration

「おやおや、ワトソン」ホームズは女家主が彼に手渡したフールスキャップ紙の紙切れを非常に興味深く見つめながら言った。「これは確かにちょっと異常だ。人に会わないのは理解できる、しかしなぜ活字体だ?活字体は面倒な書体だ。なぜ筆記体で書かない?これは何を意味していると思う?ワトソン」

「筆跡を隠したいと思っているんじゃないか」

「しかしなぜだ?家主の女性に筆跡を知られたからと言って、何の問題がある?しかし、そうでないとも言い切れないな。それでは、もう一つ、なぜこんなに短い文なんだ?」

「なんでだろうな」

「これは推理力を刺激する素材だな。単語は先の丸い紫がかった鉛筆でごく普通の書体で書かれている。筆記体の字が書かれた後、紙のこちら側が破られているのが君にも見えるだろう。だから SOAP の S の字が部分的になくなっている。これは理由がありそうじゃないか?」

「何かの用心をした?」

「その通り。ここにはおそらく何か跡があった。親指の跡とか何かこの人物を特定する手がかりになりかねないものだ。ところで、ウォーレンさん、この男性は中背で黒髪であごひげを生やしていたと言いましたね。何歳くらいでしょう?」

「青年です、 ―― 30歳にはなっていません」

「他に何か特徴はありませんでしたか?」

「英語は達者でしたが、それでもなまりがあったので外国人だと思いました」

「服装はきちんとしていましたか?」

「非常にきちんとしていました、 ―― まったくの紳士でした。暗い色の服でしたね、 ―― ごく地味ないでたちで」

「名前は言わなかったんですか?」

「そうです」

「手紙も訪問者もなかったんですか?」

「ありません」

「しかし、あなたかその少女は朝部屋に入るでしょう?」

「いいえ、全部自分でやります」

「なんと!それは間違いなく変わっている。荷物はどうなんですか?」

「大きな茶色のバッグを持っていました、 ―― それで全部です」

「うーん、たいして役に立ちそうではないですね。その部屋から出てきたものは何もないということですね、 ―― まったく何一つないんですか?」

女家主はバッグから封筒を取り出し、その中からマッチの燃えさし二本と紙巻タバコの吸殻をテーブルの上に振り出した。

「今朝、彼の灰皿にありました。あなたが小さなことから大きなことを読み取ることが出来ると聞いていたので持ってきました」

ホームズは肩をすぼめた。

「これは手掛かりにはならないですね」彼は言った。「このマッチはもちろん細い紙巻タバコに火をつけた時のものだ。燃えた部分が短いので明らかだ。パイプや葉巻に火をつければ半分は燃えるはずだ。しかし、おやおや!この紙巻タバコの吸いさしは明らかに変だ。その紳士はあごひげと口ひげを生やしていたと言いましたね?」

「ええ」

「それは理解できませんね。ひげを生やした人物では、こんな風には吸えないはずです。ワトソン、君の短い口ひげでもここまで吸えば焦げたはずだ」

「ホルダーに挿したのでは?」私は言った。

「いや、いや、吸い口の艶がなくなっている。部屋に二人の人間は住めないでしょうね、ウォーレンさん?」

「ええ。彼は非常に小食で、よくあれで生きていけると不思議に思います」

「では、何かもう少し材料がそろうのを待たなければならないと思います。結局、何も不平を言うことはないわけです。下宿料はもらっていますしね。まあ、確かに普通ではないみたいですが、他人に迷惑をかける下宿人ではありません。彼が、部屋代を割り増ししてまで隠れていたいとしても、それはあなたに直接関係のないことです。彼のプライバシーを侵害するのは、何か犯罪がからんでいるという証拠でもない限り正当化できません。この事件を引き受けた以上、今後も状況は知っておきたいですね。もし何か新しい出来事があれば連絡下さい。そして必要があれば、いつでも私が力になりましょう」