コンプリート・シャーロック・ホームズ
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「私はテーブルの上の本をちょっと見ました。ドイツ語は分かりませんが、二冊は化学の専門書で、それ以外は詩の本のようでした。それから窓際まで歩いていきました。田舎の風景をちょっとでも見られるかと思っていたのですが、樫の鎧戸があり、そこに頑丈なかんぬきがかけられていました。驚くほど静まり返った家でした。廊下のどこかで古い時計が大きな音で時を刻んでいましたが、それ以外は死んだように静かでした。漠然とした嫌な予感に襲われはじめました。このドイツ人は誰なのか。この奇妙な人里離れた場所に住んで何をしているのか。そしてここはどこなのか。アイフォードから10マイルばかり離れたところにいる、私が分かっているのはそれだけだ。北か、南か、東か、西か、全く分からない。それについて言えば、この半径の中にはレディングやそれ以外の大きな街もある。結局、この場所はそんなに人里離れた場所ではないかもしれない。しかし、この完全なる静けさから、ここが田舎だということは確かでした。私は部屋を行ったり来たりして、小さな声で鼻歌を歌ってやる気を奮い立たせ、50ギニーはそう簡単に手に入るわけじゃないなと感じていました」

「突然、何の前触れもなく、完全な静寂の中で部屋の扉がゆっくりと開きました。先ほどの女性が戸口に立っていました。彼女の後ろの廊下は真っ暗でした。部屋のランプの黄色い光が、彼女の真剣な美しい顔を照らし出していました。一目見て彼女が恐怖に怯えているのが分かりました。それを見て、私の気持ちにも冷たいものが走りました。彼女は指を立てて振り、声を出さないように注意しました。そして、たどたどしい英語で私にささやきかけました。彼女は怯えた馬のような目をして、後ろの暗闇を振り返っていました」

「『帰りなさい』彼女は精一杯、静かな声で言いました。『帰りなさい。ここにいてはいけない。ここにいると、あなたにとってよくない』」

「『しかしお嬢さん』私は言いました。『私はここに来た目的をまだ何も果たしていません。機械を見るまでは帰れません』」

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「『待つ価値、ありません』彼女は続けた。『あのドアから出られます。誰も邪魔者、いない』そして、私が笑って頭を振ったのを見るや否や、彼女は突然遠慮をかなぐり捨て、両手を握り締め、二、三歩、歩み寄りました。『お願いですから!』彼女はささやきました。『取り返しのつかないことになる前にここから出て行ってください!』」

「しかし私には元々少し強情なところがあり、このちょっとした横槍が入った事で、余計にこの仕事を引き受ける気になりました。50ギニーの報酬、疲れた旅、そしてこれから面白くない一夜を過ごす事を私は考えてみました。全てをフイにするのか?自分の仕事をしないで、もらうはずの報酬も受け取らず、なぜこそこそ逃げなければならないのか?この女性はもしかすると、偏執狂だ。このため、彼女の様子に自分でも認めたくないと思うほどびくびくしたにも拘らず、断固とした態度で頭を振り、ここに残るという意志を伝えました。彼女がもう一度懇願しようとした時、頭上でバタンとドアが閉まる音がして、階段を下りて来る足音が聞こえました。彼女はその音に聞き耳を立てると、絶望したように両手を上げ、来た時と同じように突然音も無く姿を消しました」